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2002年1月14日(月)

  • (2003年6月18日(水) 19時9分42秒 更新)
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無限の可能性を秘めた人間の潜在能力の不思議

 この前、エースコンバット4のやりすぎで幻覚を見てしまうようになって以来、人間の潜在能力の奥深さを感じている.
 エースコンバット4の後は、ゲーム中の照準マークがいたるところに見えて仕方がなかった.壁の染み、文字の一つ一つ、濃淡のある場所.そういった部分に照準があたり、明滅しながら好き勝手に動こうとするのだ.そのおかげで、居間にあるコンポのボタンの一つ一つが動き回ろうとしてコンポ自体が生き物のように身もだえしているように見えて仕方がなかった.また、何もない場所を見ていてもこの照準マークは出現する.大きさもまちまちな赤や緑の照準マークが自ら意思のあるようにてんで好き勝手な動きをするのだ.人間の脳は、ここまでそれぞれがばらばらに動く動きを創造しえるのかと感動を覚えてしまった.しかも、幻聴のようにノイズ成分の元でしか聞こえないということはなく、視覚そのものに多くのノイズ成分があるのか、目を凝らすほどによく見える.あの時はある意味感動してしまったのだよ.
 この幻聴や幻覚は、ある意味起きていながら夢の映像も一緒に見ているようなものなんだと思う.幻聴や幻覚の奥深さは、そのまま夢の奥深さにつながるんだろう.砂色の城のテラスから辺りを睥睨し低く笑う信長公や、自己の存在に懊悩し気が触れてしまったパートナーのアンドロイドを、自らのこぶしで打ち倒し慟哭する男.そんなものは起きている時には思いつくことも出来ないかもしれない.あの空を飛ぶ、空を飛んでいるのが当たり前のような自由さ。そしてまた、必死で空を飛びどこか目的とする場所に向かって空を掻く.またあるときはコントロールを失って、空の彼方に流されていくその恐怖.どれも普通の時には想像できない.瞬間移動しようとしたときに世界のほうが再構成されるあの感じ。壁抜けをしているそのどことも知れない空間を歩いているときのあの原色が渦巻いているようなすさまじい風景.加茂から木津へと向かう電車が凄まじい崖を越えて走っていて、それを追いかけて空の高みを飛んでいるときのあの遥かな世界の広がり.いったい僕の何処からこんなものが出てきたのか.不思議な不思議な自分の中の広がりを感じるとき.

 惜しむらくは、それを文章にできれば素晴らしい作品が書けると思うのだが、夢の中に文章では出てきてくれないことなのだ.嗚呼、何ということだ.

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